ときに街中で、馬鹿でかい文字に出くわすことがある。
例えば河川敷の路面に白線で記された、その上空を横切る橋の名前。
例えばIKEAの青い壁面に取り付けられた、巨大な箱のような黄色い「I K E A」のロゴ。
あるいは小さな文字というものもある。
例えば書物の行間に蠢くひらがな、カタカナ、ときに漢字によるルビ。
例えばマイクロフィルムに焼かれた公文書の複写像。
例えば紙幣の片隅に、縁取りに紛れるように印字された偽造防止の「NIPPON」の文字。
こうした文字に出くわしたとき、私ができることといったら、ただ笑うよりほかない。
文字が、大きい?あるいは小さい?どうしてそんなことがありうるのか、意味がわからない!
文字は、私達が知っている文字、飼い慣らしているつもりの文字は、一度網膜に映り込むや否や、即時召喚された意味の背後へとひらりと身を隠してしまう。その過程に文字の大きさなどというものの介在する余地はなく、それでも慰みとばかりに複数用意されたフォントサイズも、ただ意味という頂点へと向かって収斂する光学的な円錐に串刺しにされている。
しかしある閾値を超えて大きい、あるいは小さい文字は、この円錐に嵌まり損ない、意味へと向けた撮像の途上で目詰まりを起こすらしい。吐き出されたその文字だったはずのものは、ぶくぶくと肥え太った物質性へと投げ出され、意味の抽出の切っ先へと研ぎ澄まされた私たちの身体をしばし痙攣させる。なぜこれに私は意味を見ていたのか、「意味がわからない」!
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