昨日は鎌倉に行きました。人混みは好きではないので世間での休日に繁華街や観光地に行くことは普段避けるんですけれど、今日は日曜とは言えいかにも降り出しそうな空模様だし、どうかな、と思ったらまあそれでもそれなりに混み合ってはいましたね、はい。
混み合っているとつい、よくもまあ皆さん揃いも揃って列なして、と冷笑的な気分になってしまう自分がいるのですが、しかし冷静に考えて、「誰もが知っているような観光名所に行く」ようなことって、そんなに悪いことでしょうか。と、今回は自戒を込めた日記です。
「みんながしている」ことをすることは悪なのか
これは実のところいくつかの、それもわりと互いに異質だったりもする考えが混ざり合って主張されている場合がほとんどだと思います。今流行りのタピオカを例に、とりあえず思い当たったものを分類してみると、
1. タピオカ文化それ自体が悪である・・・A
2. (タピオカそれ自体の価値は別の問題とした上で)
a. 多数派に属することが悪である(「みんなと同じじゃん」)・・・B
b. 動機が「みんなが並んでいるから私も並ぶ」だから悪である
i. 主体性の欠如が悪である(「お前の意志じゃないじゃん」)・・・C
ii. 価値判断の基準が非本質的であることが悪である
(「みんな」であることが重要=「タピオカじゃなくてもいいじゃん」)・・・D
みたいな感じでしょうか。
Aはもう少し細かく分けられると思いますが、
・「タピオカという文化そのものが(たとえば「インスタ映え」のような)「みんながしている」という構造と不可分であり、悪である」
・「タピオカ旋風など商業主義に踊らされているに過ぎないのであり悪である」
とかでしょうか。よくわからない。
Bの場合、その動機について別ルート経由だとしても、結果として多数派であるタピオカ側に位置してしまっている時点でそれは悪(南米の食文化研究経由だろうが新素材開発経由だろうが落ちた先が多数派なので悪)、となるのに対して、C、Dの場合は非難を免れることになります。
またBは多数派であることを嫌悪しますが、「みんなと一緒」も「みんなと違う」もその基準を外部に依存している点では同じであり、その点をC、Dから追及されることになるでしょう。
このように、あたかも一つの立場表明と思われたものは、実のところ一枚岩でも何でもない、複数の思念(とおそらく私怨)が渾然一体となり、矛盾さえ孕んだなんかよくわからない感情であったりします。こうした状況に対して自省と自制を厭わないことは大事なことです。以上、自戒でした。
最後に、アニメ『響け!ユーフォニアム』でも屈指の印象的なシーン、お祭りの日に「なんとなく」登った大吉山で、高坂麗奈が黄前久美子に語る「特別になること」の、力強くもどこか危うげな様を思い出して、この日記を一旦閉じましょう。
麗奈は一方では「他人と違うこと」への執着を示し、「誰かと同じで安心するなんて、バカげてる」と切って捨てつつ(B)、他方では「当たり前に出来上がってる人の流れに抵抗したいの」と語ります(C、D)。
そしてそう語る彼女が「特別になるために」選んだ道は、吹奏楽部の、花形も花形であるトランペットで、誰もが目指すソロを吹く、という道です。無数の「その他大勢」を踏み台にして初めて成立するような、言ってしまえばとってもありきたりな道です。
自らも「そういう意味不明な気持ち」として、少し距離を置いて語る彼女は、その自覚あってこそ久美子に、キャラクター化もしてもらえないようなマイナーな楽器であるユーフォニアムを吹く、どこか周囲に対して冷めた目をした久美子、どこか「ユーフォっぽい」久美子に、惹かれたに違いありません。
彼女の強さの源をもしひとつ挙げるとすれば、それはその実力でもその孤高さでもなく、この戸惑いゆえのものでしょう。
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