前回少し書いた欠如についての話題とも少し関わる話なんですけれど、
私、コーヒー定期便というものに登録しておりまして。毎月2回、二種類のコーヒー豆が届くのですが、加えてそれと同じタイミングでメールマガジンが送られてくるんですね。
送られてくるはずなんですけれど、どうも私のアドレスが先方のシステムと相性悪いのか、時々メルマガが届かなかったりして、先方にメールしてメルマガの内容をコピペで送り直してもらったり(もちろん内容もフォントもレイアウトも同じ、ていうかメルマガなので内容しか無いんですけど、やっぱ「そうじゃないんだ」って感じしますよね)してて、ちょっと辟易してどうしたもんかと思っています。
で、本題ですが、そもそもなんでメールが「届いていない」ことが私にわかるのかという話です。
「届いている」ことを知るのは簡単です。手元に現物が現にあるのですから。しかし届いていないんだから手元には品は、ということは「届いていない」ことを示す証拠が、というよりそもそも「届く/届かない」という評価の契機それ自体が無いわけです。
実際どうしているかというと、私はその契機を、この郵便交渉の外部から輸入しています。具体的には、毎月第二・第四水曜日がメルマガ配信日だという知識であったり、またその日から2日ほど遅れてポストに届く、豆の入った小包であったり。そうした言葉によって、いわばまず最初に「メルマガ配信日」という埋められるべき「空欄」を構築した上で、その充填が不順に終わったとき、そこに「欠如」が見出されるという順序です。
小学校の算数の時間にでも、次のような問題を出されたことはないでしょうか。
1時には1回、2時には2回、以下12時まで同様に鐘が鳴る時計台があります。さて、
問題:今が6時だとわかるのは、鐘が何回鳴ったときでしょう。
正解は6回……では無いわけですね。しかしならば7回、と答えてもやはり正しくありません。無理矢理正しい回答をあげるとするならば、次のようになるでしょうか。「6回鳴って、かつ7回目が鳴らなかったとき」と。
このような引っ掛けめいた問題も、先程のメールの不着とよく似た構図を持っていることがわかると思います。つまり、「欠如」を示すためには、その欠如を受け止める「空欄」が必要なこと、そしてその空欄は言葉によって外部から構築されなければならないこと。
私たちは例えば「一角獣の存在」の発見に注がれるそれとは比べ物にならないほどの情熱を、「一角獣の非存在」の発見に注ぐことでしょう、そしてそれは報われることない情熱です(*)。
*ここでわざわざここでの議論には関係のない、より面倒くさい参照を誘うような例をあげたのは、完全に私の顕示欲ゆえです。「いかなる状況のもとでなら一角獣が存在していたことになるのか私たちにはわからない」という仕方で、事実の問題ではなく言語の問題、コミュニケーションの問題にまで遡って考えるのがクリプキの可能世界論ですが、ここでは言うまでもなく一角獣は存在できません、というか、私たちが「一角獣」について語る限り、その言葉には、その言葉がまさに示すところのものの存在の余地は残されていません(東浩紀『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』)。
ところで、これがかたちある手紙であれば、配達がうまくいかなかった場合は(誤配や紛失さえない限り)「転居先不明」として送信元に送り返されるので、ということはつまり送り返された郵便物がそのまま配達不順を示す記号として機能するので、少なくとも送信元にはその事実を把握できるのですよね。
たとえば最近、銀行から休眠預金に関する通知書が届いたのですけれど、「10年放置された口座の預金は公共に移管されます」との旨に続いて、「本通知がお手元に届いた場合は休眠預金等の対象にはなりません」とあり、数十秒くらい混乱してしまいました。
つまりこの通知書は見かけとは裏腹に、実は通知という機能は副次的なものであり、主目的はむしろ同法の対象となる口座の発見にあるのでしょう。そしてその目的からすれば、ここで大事なのは無事届いた手紙よりもむしろ「転居先不明」として送り返されてきた手紙、受信者の「不在」を表す記号の方なわけです。
……長くなったので中断しましょう。極力残りも後半として書こうと思いますが、「日記」なので期待しないでください。
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