しかし本の頁にしてたかだか1、2頁の文章を書くだけのことにどうしてこうも苦戦しているかって、まあおそらく端的に言って「上手いこと言ってやろう」と思ってしまうからなわけだ。
読む側にとって面白いとか為になるとかいったことではない(そんなことは正直どうでもいい)。「上手いこと」というのは、単に事実の外観を記述するに留まらず、その記述を何らかの形で出来る限り圧縮することと言えるだろう。それは目下の話題を他の話題に関連付けるのであれ、より高次の議論の一事例として分類するのであれ。「一を聞いて十を知る」とはよく言ったものだ。
画像であれテキストであれ、そのデータに「パターンがある」とは、そのデータがより効率的に圧縮可能であることに等しい。「whdicvjo」と「tttbgggg」というふたつの文字列では、例えば「t3b1g4」といったように圧縮できる後者のほうによりパターンが認められるといえる。つまりより「乱雑さに乏しい」わけだ。
ちなみに「複数著者によるテキストを一緒に格納したファイルよりも同一著者による複数テキストを格納したファイルのほうが圧縮率が高い」ことを利用して文章の筆者を推定できる、という変態的な実験結果も存在する。
(「ファイル圧縮技術の応用でテキストの筆者を推定」WIRED.jp 2002年2月8日
https://wired.jp/2002/02/08/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%9C%A7%E7%B8%AE%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%AE%E5%BF%9C%E7%94%A8%E3%81%A7%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%AD%86%E8%80%85%E3%82%92%E6%8E%A8%E5%AE%9A/ )
しかし少なくとも当ブログがひとまず掲げた粗製乱造の目標に照らす限りでは、この執着が裏目に出ていることは間違いない。経験と知識のストック、そして思考と文章力に長けた人ならば日記の数行であれTwitterの140字であれ、そうした圧縮を瞬時にやってのけるのであろうが、そのどれも満足に有しない私にはその前段階からはじめる他無い。
圧縮される限りで有益となりうる記述の、そのあるかもしれない圧縮に未だ浴していない・圧縮を未だ能くしていない、単なる記述からはじめる他無い。
読むのに100年掛かる100年史の記述に甘んじなければならない。
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