3年と少し働いた職場を5月いっぱいで引退した。転職先が決まっているわけでもなく、せっかくなので2か月ばかりの休暇を堪能するつもりだ。大学時代以来の夏休みである。
なんということだろう、もう半月が過ぎてしまった。
ただでさえ無気力なところに、引退前後に気がつけば痛み出して今に至る腰ゆえに、いよいよ何につけても文字通りに腰が重い。
しかし今日に関しては、長文タイプが何より嫌いな私がわざわざこんな文章を打っていることからお察し頂けたら幸いだが、少々成果があった。
子供の頃から私は兎角集中力というものとは無縁であって、母からはよく「あなたは尻が丸い」と言われたものだ。目前の課題に腰を据えようにも身体がそわそわして仕方がないし、目は上滑りし思考はとっ散らかりタタラを踏んで、目的地は愚か、航路に就くことすらままならない。そのくせ「集中しなくては、耽溺しなくては」という焦燥ばかりが先走って姦しく、いよいよ眠られぬ夜のごとく何もできないままに、時間はただすれ違い際ばかりを能う限り引き延ばし、いまこの時はいつまでも過ぎていかないのに、いざ振り返ればこちらの目を盗んですり抜けていった時間の残骸で死屍累々である。
集中するのはもう諦めた。むしろ最初から逃げ道を複数用意しておいたほうが有益だ。
結局今日は落書きなり楽器なり仮眠なり(毛色の異なるいくつかの)読みものなり工作なりそういった色々を10分刻みとかでとっかえひっかえしていた気がする。
「気がする」と書いたが、集中力を欠いた人間というのは過去の自分の行動についても一筋の記憶として集中化できないものなのだ。だからこそ彼には未来に向けて準備する地図だけでなく、過去を記録する地図もまた必要である。そこで今日の私は一枚の大ぶりのホワイトボードと、一冊のメモ書き用の辞書を用意した。いまこの時をその前後に向けて、少しばかり嵩(暈)張らせるのだ。
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