2016年11月9日水曜日

「セカイ系的リテラリズム」、地球として描かれる世界について。


「セカイ系」が小説やアニメ等の作品群から見出されたものである以上、それは単にその世界観のみならずそれを示す表現類型の側から考える必要がある。「セカイ系」は二階建てであり、「具体的中間項の欠如」という世界観のレベル、そしてその作品化に際しての「セカイ」の描写のレベルから成る(「セカイ系」を「物語類型」とすることはともすればこの区別を曖昧にしてしまう)。

一般的に話題になりがちなのは前者の方なのだが、最近私はむしろ後者に関心を持っている。具体的には、「世界」または「セカイ」に対して「地球の」絵を充ててしまうようなリアリティだ。

またそのように描写される「セカイ」の親戚として、「(人間や宇宙の)歴史」として描かれてしまうところの「時間」が思い浮かぶ。

ちなみにそれが「近景」との関係で語られるものである以上、その「短絡」は「いま、ここ」の「君と僕」からの急激なズームアウトとして実現される。

このような結びつけは象徴化ですらなく、あまりに素朴にリテラルに遂行される。このような姿勢を仮に「セカイ系的リテラリズム」と呼んでみたい。

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