いくらか前から、「音をよく聞きたい」と思いつづけている。より正確には、その音の指示対象の把握の内に回収されるべくある音ではなく、いまこの私がたまたま場を同じくした限りの音の偶発性個別性、そのようなものに繊細に身を投じたいと、そう思い続けている。
多くの場合、「よく聞く」といった時に想定するのは音源と聴取する音との間の記号的対応であったりする。例えば「後方から自転車が近づいてくる」「その自転車は二台である」「そのうちの右手の一台はチェーンにサビがある」等々、その解像度をどこまでも上げていくことはできるが、結局のところそれは聴覚における観察眼であり、ということは観察する眼=視覚へと、あるいはその他の諸感覚へと代替可能なものであり、その成果が言葉へと翻訳可能でありそして翻訳と同時に意味の中へと回収されしまうようなものである。
素朴なたとえだが、地球に関しての知識を一切もたない宇宙人がある日上空から私の頭の上へとマイク(と私たちが呼ぶものに対応するなにか)を垂らしたとする。そこに彼が受け取る音像は指示対象が全く不明の無意味な音の量塊であろう。それが音の重なりである、という判断さえ既にその分析先についての知識に依存している(記号はその場において差異を聞き取ることから始まる)。地球への客人である彼はたまたまに選択された一点を通じて、無限に広がるどこまでもフラットな音の場を聞くのだ。
記号的対応は能記と所記との円環の中に世界を回収し閉じてしまう。耳にした音から、会話の相手の、言わんとする、内容を、聞くだけ聞けばその瞬間に用済みになってしまうような、そのような音を私はどこか虚しく感じる。
世界の、意味からの解放。「君と僕」の閉域を破ること。他者へと開くこと。ところで、映画『聲の形』のテーマとはすなわちそのようなものだった。無音室のようにフラットな背景の中で(本作中では空にほとんど雲が描かれず、ただすこんと平たい色面を背に自転車を漕ぐ将也が真横から描かれたりする)、通信機越しに、場所なしに、交わされる交信ではなく、例えば夜空を横切って行く飛行機の明かりのように、世界にはいくらでも手の届かないものがあり、私の耳の及ばぬところもまた常に音に満たされており、無数の「私とは関係のない人々」がいること。中盤、硝子が手話という、極めつけに対面式の言語による会話に抵抗を見せたのもこの点から理解できるかもしれない。
将也が周囲の人々の顔に貼り付けていたバツ印は彼に対する友好の欠如の印ではない(もしそうならばその印を剥がれた人の顔は代わりにマル印で塞がれることだろう)。それはむしろ彼へと常に眼を向け続け、彼と無関係であることを許さないことの印である。
なお、将也についてはその表現にあたってたまたま音に代表されていたが、この関心において音と光との区別はさほど重要ではない。この映画は音のみならず光にも大いに注力されており(映画冒頭を参照)、この映画に牛尾憲輔によるサウンドトラックのタイトルは「a shape of light」であり、映画タイトル英題「the shape of voice」と微妙な交叉を示している。それぞれは確かに独立して場を持っているが、場をもちうることにおいて両者は共通する。相互翻訳は無意味であるが、その翻訳不可能性によってこそ両者は重なりあうことが許されている。光と音とはその「極限で」( http://www.excite.co.jp/News/bit/E1475237889931.html?_p=4 )重なりあう。
蛇足になるが、同じ日に観た『君の名は。』は世界の中に常に君の声を聞き取ろうとする僕の話であり、まさに君と僕との一対一対応の間へと世界を閉じていく側の極であった。私にはどうしても受け容れがたいながらも、その対比において、その対比の条件としての私がこの両作品を同日に観たことの偶発性において、確かに私は面白くふたつの映画を楽しんだ。また観よう。
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