2016年11月11日金曜日

ピクセルは自分の隣のピクセルを見ているか。

ピクセルは自分の隣のピクセルを見ているのだろうか。

ビットマップ画像を考えた時、個々のピクセルは互いに独立に、ただ自己の値だけを出力し続ける。それが全体としてどのような画像を形作っているかは知る由もない。例えば校庭いっぱいをつかって作られた人文字を考えてみても良い。個々人は今自分が作っている文字を知ることはない。

しかしもし個々のピクセルがその持ち場に全く無関心であったとすれば、例えば個々のピクセルの持ち場をシャッフルした状況を考えたとき、それでなお個々のピクセルが自己に課せられた値を吐き出すとき、上空からみたその画像は確かにめちゃくちゃであろうが、しかしこの画像はシャッフル前の「正しい」画像と何が違うというのだろう。

このような問いに、例えばゲシュタルト論が、あるいはベルクソンの「縮約」とか「記憶」とか、ヒュームの「慣習」とかを参照しうる。

が、時間がない。


また「純粋な外的規定は存在しない」と語るライプニッツに従えば、空間や時間といった外的変化は必ず個々のモナドの内的変化を伴う(「モナドは鏡である」)。これはたしかに個々のピクセルの近隣との関係の存在を言うものではあるが、注意しないといけないのはこの時ピクセル自身がその同一性に変化を被る以上、それはもはや「見ている」とは言えないだろうという点である(「見る」とはその主体の同一性を前提とする行為である)。

画像処理の分野では、画素同士の「連結性」の判別のために、「4連結」ないしは「8連結」と呼ばれる定義付けを行うそうである。すなわち、ひとつの注目する画素を想定した時に、その隣接画素(4連結ならば上下左右の4画素、8連結ならそれに斜め方向を加えた8画素)が同じ値である場合、そのふたつの画素は連続している、とする。

仕事に向かわねば。

0 件のコメント:

コメントを投稿